このサイトや街道歩きの話題でよく出てくる言葉について取り上げる、「街道歩きの用語集」。前回は「そもそも『街道』とは?」というお話をしましたが、その中で「五街道」「付属街道」という言葉がちょちょっと出てきたのを覚えておいででしょうか!
今回は、その「五街道」と「付属街道」についてです。
「五街道」と「付属街道」とは
手っ取り早く言いますと(……というかそれ以外に言葉もないのですが)つまりはどちらも、江戸時代の“最”主要街道!
まず「五街道」とは、「東海道」「中山道」「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」の五つの街道のことで、江戸幕府の統治の要として江戸時代初期に整備されました。偉いです。日本で5本の指に入る重要な街道です。
起点となるのはモチロン我らが街道歩きの聖地・日本橋。お江戸日本橋を中心に、日本各地へ延びる幹線道路と言っていいでしょう。
全部で五個!五個でコンプリート!って言われると、脊髄反射で歩きたくなってしまうものなのですよね。(コンプリートさせるのが目的で五つの道筋を整備したわけでもないんでしょうけれど……)
ともあれこの五街道は、他の街道に比べて特別に、特別に、たぶんもっと特別に重要視され、なんと幕府が直接管理。「そこの地方さん、やっといてくださいね!」じゃなく。
国土交通省ならぬ道中奉行が設置されてからは、その管理下に置かれまして、道筋や宿場の位置の変更、人馬賃銭などの決めごとや大きな工事などはすべて幕府(国家)が管理決定をしました。
※ ちなみに奥州街道は福島県の白河までが幕府直轄のいわゆる「五街道」で、そこから北は「脇街道」(後述)です。
一方もうひとつのワード「付属街道」とは、この五街道から分岐する特に主要な街道で、五街道と同様にこちらも国土交通省……じゃなくて道中奉行の支配下に置かれました。
「五街道」という言葉が特別に有名になっていますが、それと同等に近い扱いを受ける街道はほかにもあったということですね。
東海道の本坂通(姫街道)・佐屋路・山崎通(西国街道)や、日光御成道・壬生通・例幣使道、中山道と東海道を結ぶ美濃路、水戸方面へ向かう水戸佐倉街道が、五街道の付属街道とされています。(水戸佐倉街道は、江戸に近い新宿・八幡・松戸の三宿のみが幕府の管轄)
五街道踏破を目指すみなさーん、歩く街道が増えちゃいましたよ!!
それではこの「五街道」と「付属街道」、それぞれの街道についてざっくりと。
五街道について
- 東海道 …… 江戸(日本橋)から京都(三条大橋)までの約500km。宿場の数は53。
大津から伏見など4宿を経て大阪に至る道も「東海道」の別ルートで、大津までと合わせて57宿、距離は約540kmです。
とりあえず江戸から京・大坂をつないでおけ!江戸時代から往来の多かった、一番エライ道筋と言っていいでしょう。 - 中山道 …… 江戸(日本橋)から京都(三条大橋)までの約540km。宿場の数は69(うち草津から京都は東海道と重複)。
太平洋側を進む東海道に対して内陸を行く道筋で、峠越えの行程は険しいものの大きな川越が少なく天候に左右されないため旅程の組みやすい道筋とされたそうです。 - 日光道中(日光街道) …… 江戸(日本橋)から栃木県日光までの約140km。宿場の数は21。東北地方への道筋ですが、徳川家康の廟所が日光にできてからは参拝の道として利用が増えました。
- 甲州道中(甲州街道) …… 江戸(日本橋)から長野県下諏訪までの約220km。宿場の数は46。東海道と中山道の真ん中を行って、下諏訪で中山道に合流する道。軍事的な意味合いが強く、参勤交代や日常の往来にはほかの街道ほど利用されませんでした。
- 奥州道中(奥州街道) …… 江戸(日本橋)から福島県白河までの約190km。宿場の数は27(うち日本橋から宇都宮の17宿は日光街道と重複しているので、現在一般的に「奥州街道」と言われるのは宇都宮ー白河のことが多いです)。白河から北も同じ「奥州街道」の名で呼ばれますが、こちらは幕府が管理した五街道・付属街道ではありません。
東海道と中山道が1601年ごろに、日光道中の江戸から宇都宮までと甲州道中が1604年ごろまでに整備されました。のちに日光東照宮ができて、日光道中では日光までの通行が増大し、付属する街道(後述)も利用されました。奥州道中は遅れて1646年ごろに完成しました。
付属街道について
五街道に準じる主要な街道。ささっと名前を上げておきますね!
東海道の付属街道
東海道と中山道を接続する付属街道
- 美濃路
日光道中(日光街道)の付属街道
- 日光御成道
- 壬生通
- 例幣使道(日光例幣使街道)
水戸方面に通じる道
- 水戸佐倉街道(水戸街道、成田街道)
※ 江戸に近い新宿・八幡・松戸の三宿のみが幕府の管轄です
五街道・付属街道とその他の街道の違いとは?
五街道と付属街道が江戸時代において特別扱いだったのはいいとして……。じゃ、現代の街道ウォーカーにとって何かほかの街道との区別ってあるのさ⁉と言いますと。あるんです、ものすごい違いが!!
五街道と付属街道は、幕府が直轄していたことで、公的な史料や当時の道中案内などの出版物が多く残っています。
そもそも「宿場」の本来の定義は「人馬継立がある」ということなのですが(このことについても後日また別の機会に……)、五街道や付属街道ではこれが幕府によって公式に定められているものの、それ以外の街道では、人馬継立も休泊のための機能も不十分で宿場というものがあいまいな街道もあります。(もちろん各藩がきちんと管理していた街道もあります)
また幕府は、幕府の管理する五街道と付属街道については「宿泊施設は宿場の中だけ!宿場の外に泊まっちゃダメ!」と決めていましたので、どこからどこまでが「宿場」なのかきちんとした定めがあるんですね。
地方の小さな街道ともなると、宿場と宿場以外のまちの区別が曖昧だったり、そのいわゆる「宿場」がどこからどこまでというくっきりした境はなかったり、そもそも道筋が決定的にこれひとつなのかとか、今となってははっきり分からないことも多々あります。
街道ウォーカーのみんな! 歩くとき、宿場をひとつの目印にしてるでしょ! この区切りがちゃんとしている方が有難いでしょ!
※ ちなみに、じゃあ地方の小さな街道の「宿場?」ってなんなのよ。という問題については、ちょっと複雑なものがあり……。
ひとまず、街道関連の資料では(当サイトもそうですが)、そのような街道に関しては「宿場」と断言せず、街道上の宿場チックなポイントは「宿場・大きな町、村・城下町」みたいに掲載していることが多いかと思います。
なお、五街道と付属街道以外に、これ次ぐ主要な街道というのもありました。勘定奉行が支配した街道で、脇往還(脇街道)と呼ばれます。脇往還の中でも主要なものは、五街道に引けを取らないくらいの通行量の多さでした。
(これは数があるので改めて記事にできればと思いますが、例えば奥州街道の白河から北、三厩までとか、中山道から日本海に向かう三国街道、北国街道、東海道の延長線で京都から西に向かう山陽道……などなどの列島を縦横断する長い街道や、短いものでは東海道と中山道をつなぐ御代参街道などがあります)
ますます歩く街道が増えちゃいましたねーー!!
街道歩きと五街道
東海道をはじめとする五街道はおおむね現在も幹線道路になっているので、国道や鉄道に沿っていて、多少駅から離れる区間や峠越えはあっても全体としてはアクセスしやすく、店や食事や宿泊施設にも困ることはあまりありません。これホント助かる!
また、道筋や宿場のはっきりとした史料があり、昨今はガイドブックも出ていて歩く人も多いので、街道歩きに初めて挑戦される方も地図や情報を簡単に入手できます。特に東海道などは現地の案内板も充実しています。
付属街道となると五街道ほどメジャーでないぶん地図やガイドブックなど出版物の選択肢は限られてきますが、やはり大きなまちを通っていることが多いので、歩くのに困難な要素は少ないです。
どちらも全国の街道の中では歩きやすい街道と言っていいでしょう。街道歩きをこれから始められるなら、まずはこのあたりからのスタートをお勧めします!
というわけで、おしまい
まずは五街道の踏破を目的に街道歩きを始められる方も多いかと思いますが、歩けば歩くほど、そこから続いている別の道にも足を進めたくなってしまうもの。
次はどこへ、と迷った場合は、五街道の付属街道から攻めてみるのもアリですね。主要な街道だけあって、歩けばさらに歩きたい街道が増えること請け合いですよ!(なんて終わりのない趣味)
「街道歩きの用語集」では、このサイトや街道歩きの話題でよく出てくる言葉について取り上げていきます。ご意見ご感想リクエストもお気軽にどうぞ!
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